昭和48年02月28日 綾部文男5年霊祭



 (途中から)
 頂きながら、只今五年の式年祭を、ご遺族親族の方達、みんなこうしてお集まって、まぁ私共奉仕させて貰うて、滞りなく終わらせて頂いたわけでございます。実は昨日も霊祭を一つ仕えたんですけれども、今日のお祭りの規模を、ま少し小さくしたと言うお祭りでした。それはこの末永先生ところの、お婆さんの二十五年の式年祭でございましたが。勿論教会のことでございますから、壱岐の教会では賑々しゅう式年祭が、仕えられたことと思うのですけれども。
 こちらに孫達が三人居ります。日田それからここ、そらから田主丸。その孫達がまぁ相集まって、もう本当に私はあちらであっとりますから、まぁこちらでは昼の御祈念に併せて、玉串でも上げてもらうだけぐらいのつもりでおったんです。ところがどうしていよいよ、お祭りになったところが、もう結局はあの、普通の霊祭を仕えるような。もうお供えなんかでも、もう本当に沢山集まってまいりましてね。
 もう本当に何と言うでしょうか。そういう、孫達が一生懸命の思いで、仕えるその思いというものが、あの一つの雰囲気を作るとでも申しましょうかね。いわゆるそういう催し催されてお祭りが出来たと言う感じでした。それで御神前に、私出らせて頂いたら、あの私のほうの家内に、子供達家内の誕生日の時に、こんなあの杉の丸太を斜めに切ってね。お母さんお誕生おめでとうと言って、送ってるのがある。ですからそれを鏡台の前に、ちゃんと家内が飾ってるんですよ。それを頂くんです。
 ですから私は昨日始めて、そういう表現を頂いたんですけれども。いわゆるお国替えと言う事は、あの世への誕生なんですよね、大体は。だからそのあの世への誕生が、ですから、まぁ言うならばお祝いなんです。それももう五年も経ちますと、まぁ普通で言う悲しみとか、その肉体を持っておるための苦しみと言うのは無くなって、段々御霊様へ対するところの、憧念の心というものは、もう本当にあの純粋なものに消化していくわけです。今日のお祭りは、なんかそんな感じでしたですね。
 もう開扉の一番大事な時に、子供ががんがん泣くしね。先生方から手から手に渡っていく、あのお供え物をする時にね。あのおご馳走がひっくり返ってしまうなんて、もう私はもう本当にヒヤッとしましたけれどもね。例えばご祝儀なんかの時に、お神酒がこぼれますと、はぁお祝いお祝いと言うでしょうが。あれなんです。もう今日のなんかもある意味では、あのそういう前々から、綾部さんのお願いがあって、今日の五年の式年祭、五年の式年祭、御霊様も喜んで頂く様に、神様に喜んで頂く様に。
 親先生に一応どの方達にも喜んで頂く様なお祭りをと言うので、一生懸命のその思いがですね。実は楽員なんかは、五人に決まっとったんです。綾部さんと二人の話しが出来とったんです。それがどういう風に、どうして間違ったか、ここの楽員全部に電話架けとった。それもあただに電話掛けたもんですから仕事、中途で止めて福岡からあの東さんなんかは、あちらを十二時半に発ってきた。それでもうぎりぎりにあのまぁ間に合わせて頂くと言った様な事で、いわゆるてんやわんやの様子でございますしね。
 ですからもう本当にあの、お祝いの時に、お神酒がこぼれて、お祝いお祝いと言った様なその心が大事。もう本当に子供達はもう、急にお客さんが沢山見えて、まぁその喜んで転んだり泣いたりしておる姿であると頂くという事がね。あの私が日ごろ頂いておる信心だと思わせて頂いたのですけれども。私が今日、今日のお祭りを、神様にご報告申し上げましたら。あのね、冷暖房の装置が出来たようなものぞと言う御理解を頂きました。もう本当に、例えば御霊様が、寒ければ寒い思い。
 暑ければ暑い思いを例えばなさっておると致しましょうかね。けれどもこの、まぁどっちかち言うなら、少し大げさぐらいなこのお祭りですね。やっぱり冷暖房の設備でもすると言うからには、普通でほんなら人間の世界にでも、随分の費用もかかりますし、沢山な事の大げさな事になりますけれども。本当に今まで寒い思いをしておられた方が、はぁおかげで、暖かな部屋でという事になるでしょうし。
 暑い思いをしておられるならば、まぁおかげで、本当に涼しい思いで過ごさせて頂けれると言う様な働きが出来たお祭りだと言う。そういう一つの何ですかね画したものですね。今日のお祭りを境にそういうおかげを受けられなさったと言う感じを持ちます。もうこれが最高の、私は、有難い事であったと思うんです。それからあの今日の御霊様のことの、贈り名の事をお願いしておりましたら、富士山の芙蓉を頂くんですよね、芙蓉雪の白く積もっておるところ。
 そしてあの芙蓉の芙、草冠に夫と書いてある。あのあれを頂いて、ですから贈り名に、恐らくあの、ふようと生前仰ったからあの、文男のふをふようの芙、みは美(うるわし)おはね、下駄の緒です履物の緒です。あのこの緒方の緒です。これを頂くんです。ですからこれは私も、最高の贈り名だろうと思うんですね。例えばふようの芙を頂くと言う事でも、美しいと言う事でもそれからあの、下駄の緒ち言うとなんかこう、響きは悪いですけれどもね、あれはあの履物は、どんなに素晴らしいようであっても。
 いわゆる緒が切れたら、もう使い物にならない。どんなに例えば素晴らしい、例えばほんならお祭りを仕えても、真が無かったら、それは値打ちはなか。もうこれは真と言う事だと思わせてもらいました。同時にあの、松の字を大きく頂いたから、恐らくこの四つの字が、贈り名の中に入ってくるだろうと思うんです。松と言う字は、まぁここでは一番尊ばれたり、大事にされておる字ですけれども。これをほんなら分解すると、木偏に公と書いてある。ですから、気を大きくだと思うのですよね。
 これはあの、これから御霊様のおかげを受けていかれることのためにも、御霊の位も段々進んでいかれることのためにも、この綾部文男、松何々彦の霊神と言う事になるのだろうと思うのです。はっきりまだ頂いてませんけれども。ですからその贈り名を朝晩、唱えさせて頂くたんべんに、あの真を思い麗しいを思い。又はあのふようの芙を思うてね、あのいよいよ豊かな大きな心での、遺族の者の信心が大事だろうとこう思います。もう今日のお祭りのなかで、一番感動を見せられたのは、この人だけです。
 私は本当にあの御霊様のお祭りの時には思うのですけど。私が感じたり頂いておる様子をね、皆さんにおかげ頂いたら、もう本当に素晴らしい事であろうと思うのですけれども。本当にあの御霊様も人間と同じやはり悲喜こもごもの、冷たい時には冷たい暑い時には暑い思いをなさっておられる。けれども人間の世界でもです、おかげを受けた人達の場合は、寒い思いの時でも寒い思いをせんで済んだり、暑い思いをせんで済んだりほんなら、百味の御食を頂きながら、生活をしておる人があるとと同じなんです。
 それはもう本当にみすぼらしい、もうその縄帯のような帯をしてですね。あの一杯の水が欲しいけれども、その水一杯がいただけないと、こりゃ例えての話なんです。そういうあの自由さえ叶わないと言う御霊も沢山あると言う事です。もう本当に遺族のものの信心、いや本当いやこの世にある時に、如何に魂が清まると言う事についてです。本気であの、魂を清めることに精進しておかなければならないかと言う事が分かる。
もうあれは去年でしたでしょうか、一昨年だったでしょうか、私と綾部さんと高芝さんと、あのそこの控えで、夜信心話を四方山話をしておった。高芝さんはちょっと敏子のとこへ行くと立たれた。その後に私がその朝の御理解を、綾部さんにさせて頂いたんです。と言うのは、あの仏教的に言うと、あの生まれ変わりと言う事を言う。これも例えですけども、例えば人間にこの世に生を受けると言う事は、もういうたら何千年かかって、人間に生れてきたか分からないのです。
 私共がこの世に、こうして生を受けておるがです。もうどれだけの年数を食って、ようやくこの世に人間として、生を受けたか分からないのです。そのほんなら生を受けた人間がです。ただほんなら、飲んで食うてちょいと言った様な、ただ自分の我情我欲のために、一生終わったとしたら、どう言う事になるだろうか。せっかく永年の間かかって、ようやく、この世でいよいよあの世で永世の、例えば幸せの頂ける事のために、この世に生を受けてきた。
 そして本気でこの世では魂を清めることに、五十年の人もありゃ八十年の人もあろうけれども、その年限を魂を清めることに、この世にあると言う生き方をしていくと言う事はです。もうこら大変な事だと言う、あのお話しをさせて頂いた途端でしたよね。あの小さい部屋がね、バーンと言うてね、弾き返るほどのオイサミがあったんですよ。ほうとにかく、綾部さん、考えて見なさい、もうこの世ではね、あの楽をするとか、しないとかと言うのではなくて、魂を清めに、この世には来とるとだという事です。
 ほんなら、それを知らずに、例えば、お国替えをした人達の場合なんかは、本当に寒い思い冷たい思いを、例えばしておったに違いはないけれども。いわゆる遺族の者の、まことの信心によって、例えば暖房設備をして差し上げることが出来た。冷房の装置をしてあげることが出来たと言う様な働き、そういう係わり合いと言う事がね、あの素晴らしい。こらもう、私たちは、この世に生を受けておる間にね。もう本当に幸せにならなきゃならない。幸せにならなければならないと言う事はね。
 先ずどんな場合であっても、喜べる心を頂くと言う事。それが、魂を清めることに努めなければ喜べないね。あの昨日一昨日、あの二十四日の日の、大和さんところの式年祭の時に、大和心と言う事を頂いて、大和心と言う事は、どう言う事だろうかと思いよったら、お礼を言う心と。大きい和らいだ心と書いて、それがどう言う事かと言うと、一切のことにお礼の言えれる心だと仰いますからね。一切のことにお礼の言えれる心の状態と言うものは、ただお礼を言わんならんからとて、言えるものじゃない。
 本気で心が清まる。言うなら魂の清まりを願って、日々それに修行させて行きよらなければ、お礼を言わなければならない事にも、お礼が言えず反対に不平が出たり、不足が出たりする結果になってくるのです。同時に例えば私達のおかげの受け方と言うものはね、一つの催しに催されて、なら今日のお祭りが仕えられたと言う感じなんですよね。ですから、例えば有難いと言う雰囲気には、有難いことが生れてくる。
 それが少してんやわんやし過ぎて、今日の場合はひっくり返った、あ痛と言う場合もあったわけでしょうけどもね。はぁお祝いお祝い、目出度い目出度いと言う事で受けることなんです。そういう雰囲気が、もう次のおかげを呼ぶわけですね。例えば迷うて出たとか、幽霊が出たとかと言うけれども、そらもう笑いさざめきしておる時に、三味線太鼓で賑わいよる時に、幽霊ちゃ絶対出るもんじゃないです。
 やっぱりそのヒューどろどとと言った様なね。何とはなしに生臭い風が吹いてきたり、こうじめじめとしたお湿りがあったりと言う、そういう例えば、催し催されなければ、迷うたでも出てこられない様に、私共がやっぱ有難いというおかげを頂きたいためには、どうしても有難い雰囲気と言うものが、日頃出来ておらなければならないね。例えばそれは、困ったことであっても、おかげおかげと言えれる心なんです。はぁらこげな時にひっくり返してという、責める心ではなくてね。
 はぁもうおかげおかげと言う心がね、もう次の有難いおかげの雰囲気を生むんです。それがほんなら私共が、本気で心を清めることに精進させて頂いておらんと、いざという時に、有難いという心が出て来ない訳です。今日の私はお祭りを境に、例えば御霊様が、暖冷房完備の、例えば部屋にお住まいになる事が出来たと思うただけでも有難い。ところが、機械は、これは、何時も故障があるのです。
 昨日もその霊祭から、まぁ色んなお年寄りの方達の信心研修でしたけれども、あぁた暖房のほうが故障があっとるもんですから、全館暖房が入るのが入らないです。あただにストーブをつけたりなんかして、したようなんですね。やはりあの故障があるのです。ほんなら人間の心と言うものが、もう清めたけんで一遍清めたけん良いというのじゃなくて、毎日、お風呂入らせて頂くたんべんに垢が出るように、これではもう精進し務めきっとかなければ、清めて清めて、清め抜くという事にならないです。
 生涯かけてやはり、その本気で清まろうという生き方を身に着ける。そういう例えば道を学ばせて頂くと言う事がね、信心だと思います。今日の御霊様の喜びが、何時何時までも育って、そしていよいよ、有難い御霊の位を進んで行かれるおかげを頂くためにも、遺族の者のね。いよいよ有難い、いわゆる大和心とはどの様な事にでも、お礼のいえれるような心の状態を、お育て頂くようなおかげを頂きたいと思いますですね。
 本当にあの今も申します様にこんな風で、お祭りを仕えるつもりは無かったもんですからね。時間も少し遅れたり、てんやわんやの事でございましてから、お不行き届きの事でしたけれども、まぁ結果はそれをおかげおかげと、皆さん受けて下さって、あの御霊様にもそれをですね、まぁいうならお国替えをなさってから誕生。いうならばあの世で五つの年を迎えられたに相応しいご信心が出来られるようなおかげを頂きたいと思うですね。
   どうぞ。